dod只今圏外につき。 1

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 名も知らぬ人が行き交う晴れ渡った都会の雑踏。足早に隣を過ぎ行くあの人は稀代の切れ者かもしれない。高らかにヒールを響かせているあの人も華奢な腕からは想像もつかない手腕を奮うのかもしれない。前を歩くくたびれたビジネスマンに至っては誰かにとってのヒーローかもしれない。しかし象の皮のようなスーツをぶかぶかと纏う、くたびれた童顔の彼は、およそそのどれにも類することがなかった。
 彼の耳に電子音が1度、2度、3度、響いた。4度、彼は眉を上げる。5度、その表情を止め、6度、慌てて自らの鞄を引っ掻き回した。7度、8度、9度、まだその音源は見当たらず、10度、そして途切れた。そして彼の探りの手もそこで停止。右のポケットを探って、ため息1つ。その手の中には携帯電話が握られていた。
 ポケットから引きずり出して、かぱり、開けた。見慣れた不在着信のアイコンにため息。開いてみると、見慣れた上司の名前、そしてまたため息。脳裏に過るは見慣れた上司の形相、もうため息すら潰えた。
 毎日毎日同じことの繰り返し。新人は何かにつけて苦労するものだが、彼は始まったばかりの社会人生活に3ヶ月を待たずして新鮮さを感じなくなっていた。ところがそこは不幸なのか幸いなのか、辞めるだけの勇気のない臆病者。そんな毎日に甘んじる、どこにでもいそうな若者である。
 いつもの道筋で、いつもの駅で、いつもの満員電車にいつもの様に彼は飲み込まれた。四方八方から圧力。何とか手だけは上に上げて、ごとり、動き出した電車に腹筋を逆らわせた。がたりがたり、それに合わせ続ける。ごとり、ごとり、ぐらり、急カーブ。急な圧力に倒れぬよう耐えた彼は、目の前の網棚に思い切り鼻っ柱を打ち付けた。涙が沸いてくる、が、それにも耐える。座席から怪訝な顔で彼を見る視線を感じたが、そんなことを気にしていては生きていけない。図太さだけは身についてきたのを感じてへらり、微笑む。徐々に強くなる圧に、腹筋に入れる力を比例させる。極限状態の中、息をすることすら忘れそうになる。
 と、その時だった。甲高い音が淀んだ空気を切り裂いた。耳に覚えのある音。彼はふるり、みじろぐ。ポケットから例のものを引きずり出そうとした。そこでぴくり、彼の動きが止まる。心当たりのないもう1つの塊があったのだ。  依然として音は響き渡っていた。周囲の非難の眼が彼を射抜く。震える指で何とかその塊を引きずり出した。目の前にぷらり、ぶら下げてみる。灰色で手のひらよりふたまわりほど小さい箱だ。それは携帯電話のようにも見えた。しかし奇妙なことに、表面にはディスプレイはおろか、ライトの類いもなく、ただつるりのっぺり鈍く輝くばかり。キョロキョロと辺りを伺う。しかし持ち主らしき人は誰一人としていない。恐る恐る開いてみると、着信中の文字。怯える指で受話器上げるのボタンを押そうとした。その瞬間にけたたましい音が止んだ。
 残ったのはまたしても不在着信が1件だった。

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